カテゴリー別アーカイブ: 教育の歴史

明治初期の女子教育

江戸時代の江戸市中における女子教育は、制度がなくても当時の諸外国と比べても充分に機能していました。明治政府が明治5年に制定した初等教育は、国民全員を対象としたもので、女子教育も「女児小学」として区分されていました。しかし中等教育に関しては、男子向けの中学校と比べると整備は遅れています。文部科学省の「学制百年史」によると、江戸時代から「女学校」という名称は存在したそうです。その「女学校」と言う言葉が、女子の中等教育に該当するものとして明確に位置づけられたのは、「女児小学」の卒業生が発生する明治10年代になってからだそうです。 [include file=/rssb/12619/rss.html] ただし江戸時代の単に女子が通う女学校という曖昧なイメージは明治政府になってからも引き継がれ、明治4年に「東京女学校」が開校しています。そのために入学年齢は8歳ら15歳までとされ、かなり巾のあるものでしたが、概ね小学を卒業したものが対象としたもので、不明確ながらも女子の中等教育を意図していたようです。東京女学校はその後明治10年で廃校になりましたが、その後の女学校の範になり、明治15年に東京女子師範学校付属高等女学校が創立されました。就業年限は5年間です。その他に県立の女学校や私立の女学校が明治の3~13年ごろまでに次々に創立されました。県立の女学校は明治18年には全国で8校あったそうです。私立のものは多くは外国人によるキリスト教に基盤を置くもので、立教、フェリス、梅花、同志社等、今も残っているものも少なくありません。 参考:文部科学省「学制百年史」 [include file=/rssb/12620/rss.html]

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明治初期の初等教育

明治5年に制定された学制は、欧米の教育制度を模範とした壮大な構想の近代学校制度でした。維新直後の明治政府は、まず高等教育の大学などに注力していましたが、新たに整備された学制は、ほとんどが初等教育に向けられ、初等教育の卒業生が発生するに応じて、順次上級学校の制度を整備していきました。制度はできても当時の日本の社会は、まだ制度をきちんと運営していく基盤がなく、制度はその後頻繁に改正されています。教育費の国庫予算も少なく、制定された学区内で貧富の差に応じた各戸割り当て金や寄付などで費用の大半が徴収されていました。 [include file=/rssb/12617/rss.html] 当時小学校は「尋常小学」、「女児小学」、「村落小学」、「貧人小学」、「小学私塾」、「幼稚小学」に区分されていました。「尋常小学」は制度の基本で、6歳から9歳までの下等小学と、10歳から13歳の上等小学に分かれていました。「女児小学」は尋常小学と基本は同じですが、手芸等の内容が付加されていました。「村落小学」は教則を少し省略したり、夜学校を設けたりして年齢の長じたものにも学習の機会を与えようと考えられていました。「貧人小学」は貧しい家庭の子弟のための学校で、寄付により運営されていました。「小学私塾」は小学の教科の免許を持つものが私宅で教える形態で、「幼稚小学」は今の幼稚園で就学前の予備教育にあたるものです。明治政府の苦心の跡と実情に合わせた柔軟性も窺い見えます。 参考 文部科学省「学制百年史」 [include file=/rssb/12618/rss.html]

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江戸時代の私塾 松下村塾

江戸時代には、多くの私塾がありました幕府や藩が開く官製のものと違って、型に嵌らず、時代のニーズをたくみに取り入れ発展しました。特に江戸時代の末期には鎖国の体勢がほころび、西洋の文化を窺い知るようになるにつれて私塾は活発になり、多くの有能な人材を輩出しました。教授される内容は伝統的な漢学や東洋医学、蘭学や新たな西洋医学など様々です。もちろん今と同じく、書や画、和歌や俳句もあったと思われます。有名な私塾としては、吉田松陰の「松下村塾、廣瀬淡窓の「咸宜園」、緒方洪庵の「適塾」などが知られています。明治になってからも津田梅子の「女子英学塾」など数多くあり、現代の大学の母体となったものも少なくありません。現代も「松下政経塾」が有名で、政財界人を多く生み出しています。 [include file=/rssb/12573/rss.html] 特に吉田松陰の「松下村塾」は、久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、などそうそうたる人材を輩出しました。塾生でないまでも親交があり教えを受けたり、また松蔭の教えを受けた弟子から学んだりと、直接間接に松蔭の影響を受けた人材達が明治政府の最高指導者として、近代日本の舵取りを行いました。優れた指導者による教育の力が、いかに大きなものかと言うことを示すものです。しかも松蔭が亡くなったのは若干29歳で、塾を主催したのは1858年(安政5年)から投獄されるまでのわずか3年間に過ぎません。20代半ばで、しかもわずか3年間で次世代を担う人材を数多く輩出させたことを振り返ってみると、「教育」の意味を改めて考えさせられます。 [include file=/rssb/12574/rss.html]

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師範学校

師範学校とは、教師を育成する学校でした。明治5年に学制が公布され、それまで各藩や子供の親の自主に任されていた子供の教育が、一つの制度として確立されました。その結果、学制の考えに沿った指導を行う教師の養成が必要になり、徳川幕府の昌平坂学問所を受け継ぐ形で、同年東京に最初の師範学校が設立されました。その後東京師範学校は教育大学、筑波大学と変遷していきました。今の御茶の水大学も東京女子師範学校が前身となっています。その後各県に次々と師範学校が設立されています。師範学校の制度は度々改正されますが、基本的には小学校教員を養成する師範学校と中学校教員を養成する高等師範学校がありました。また明治7年には早くも女子師範学校が設立されています。 [include file=/rssb/12547/rss.html] 師範学校の特色は、子供の教育に従事するための人材育成という建前から、授業料がかからない点です。卒業後の就職先の心配もありません。経済的な理由で上級学校に進めない若者も学ぶ事ができました。また兵役の面でも優遇されていた為、わが子を守る為に師範学校へ進学させるケースもあったのではないかと思います。戦後は新しい教育制度の導入に従って、大学に教員養成課程が設けられ、同時に師範学校は各県の国立大学の教育学部等に移行していきました。 参考:文部科学省HP制百年史』第1編第1章第5節「教員及び教員養成」より [include file=/rssb/12548/rss.html]

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江戸時代の教育-2 手習い師匠の資格

完全に親に任されていた江戸時代の子供の教育ですが、一方で教える側の資格はどうなのでしょうか。現代では教員免許画必要ですが、江戸時代といえば何も無かったのです。極端に言えば「教えます」といえば、誰でも手習い師匠になれたのです。『大江戸ボランティア事情』(石川英輔著 講談社)によると、江戸府内には1500もの塾があったそうです。全国ではその10倍の1万6千もの塾が存在したという事が分かっているそうです。江戸府内に1500というと、男の子と女の子を教える塾にそれぞれ分かれるにしても、ごく近い近所にいくつかの塾が存在していたことになります。 [include file=/rssb/12523/rss.html] 文政元年(1818年)に幕府が定めた御府内の範囲は、山の手線を一回り広くした範囲に加えて、江東区までを含めた部分です。周辺部は民家もまばらだったと思いますので、人口が集中した部分には、相当数の手習い師匠が塾を開いていたはずです。手習い師匠になるには資格が要りませんが、評判が悪ければ、親は自分の子供を通わせたりしません。気に入らなければ、別の塾に移ればよいだけです。従って力量のない師匠は自然に淘汰されていきます。国や自治体や組合などに守られている現在の先生と違って実力主義だったのです。また制度がないだけに、親は自分の責任で子供に適した先生を選んで通わせたのであり、一方的に要求するモンスターペアレンツが問題になる現代とは大違いです。 [include file=/rssb/12524/rss.html]

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江戸時代の教育-1 江戸の教育制度

学校制度を考える上ばかりでなく、明治維新から今日に至るまでの日本の発展を考える上で、江戸時代の教育制度は実に興味深いものがあります。 教育制度といっても幕府が決めた制度などはなく、全く個人に任せられていたらしいのです。もちろん各藩や徳川幕府は、それぞれお抱えの武士の子弟の教育には心を配り、独自の学校や制度も設けていたと思います。しかし庶民にいたっては全くの野放しであり、親任せであったのです。それにもかかわらず、江戸の識字率は圧倒的な数値で世界一だったのです。1850年ごろの農村部も含めた江戸庶民全体の識字率は70~80%の中ごろだそうで、読み書きできない庶民の話しは、あまり耳にしません。間口1間半の長屋暮らしの子供であっても、ほとんど全員が手習い師匠のもとには通ったのではないかと思います。 [include file=/rssb/12521/rss.html] 一方イギリスの同時代は20%台だったようで、ヨーロッパで最も進んだイギリスでさえその程度だったとしたら、他の国はおそらくそれ以下だったと推測されます。幕末に江戸を訪れた欧米人が、雇い主の子供を背負いながら本を読みふけっている幼い女の子を見て、仰天したという話を読んだ事があります。年端もいかないうちから子守として働かされている子供が字を読む事ができるということは、外国ではありえないことだからです。お仕着せの制度がなくても、広く教育が普及していたことは、今の時代と合わせてみると、考え深いものがあります。江戸時代の高い識字率が、その後の急速な近代化に寄与したに違いありません。 参考:雑学『大江戸庶民事情』 石川英輔著 講談社文庫 [include file=/rssb/12522/rss.html]

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