カテゴリー別アーカイブ: 大学と社会

産学連携

日本は高度ICT(情報通信技術)の人材育成に各国から遅れをとり、危機感を感じた経済界などと大学が、共同で人材育成や研究を行うケースがいろいろ試みられています。そのひとつが「新都心共同大学院」の設立につながっています。2006年KDDIは宇都宮大学と連携で携帯電話用の組み込みアプリケーションを題材とした、ソフトウェア開発教育を実施しました。その取り組みにより、時代が求める新しい教育の必要性が周辺の大学に広がり、翌年宇都宮大学、茨城大学、群馬大学、埼玉大学共同で「新都心共同大学院」を創設しています。 [include file=/rssb/12603/rss.html] また日本経団連では高度ICT人材の育成を進めるために、産学連携の高度なICTの実践教育を行う拠点大学院の支援を企画し、2006年4月に筑波大学と九州大学を重点支援拠点として選出し、翌年両校は新コースの大学院を開設しています。また重点支援拠点の2校のほかに、協力拠点として上記の新都心共同大学院を含む7校がリストアップされています。2009年には第一期生が修了課程を修了し産業界へと旅立っていきました。2009年には「高度情報通信人材育成支援センターが設立され、また政府も同様の取り組みを行ってきた経緯があり、産学官連携のナショナルセンターの早期設立への動きを強めています。 参考: 社団法人日本経済団体連合会 [include file=/rssb/12604/rss.html]

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大学の都心回帰

グローバル化の時代といわれて久しいですが、韓国や中国の台頭はあっという間にそれが加速していることを、我々に知らしめました。社内の公用語を英語にする企業も今後増えていくと思います。サラリーマンも生半可なスキルアップ程度では、到底追いつきそうにもない過酷な時代となりました。そのために社会人として働きながら大学院で学ぶケースも増え、また産学連携で研究を行ったり、商品を生み出したりする動きも活発です。進学率の増加や若者人口の増加で、広々したキャンパスを求めて郊外へ進出していった大学が、2000年ごろから再び次々と都心へ戻ってきました。大学院を中心にオープンカレッジを都心に設置するのが一般的です。いくつか例に挙げると2000年の法政大学の市ヶ谷キャンパスにタワー校舎を建設、2001年慶応義塾大学が丸の内キャンパスを開校、2004年に早稲田大学が大学院向けの日本橋キャンパスを開設、明治大学や日本大学は都心にあった校舎を再開発して機能アップを図っているほか、多くの大学が都心に法科大学院を開校しています。 [include file=/rssb/12593/rss.html] なかでも多くの大学が入居している東京駅日本橋口にある「サピアタワー」の8階から10階に設けられた「大学フロア」には東京大学や東北大学も含めて多くの大学が、大学院やオープンカレッジを開設しています。HPによると、埼玉大学の場合の事業内容は、「社会人を対象とした大学院経済科学研究科(博士前期・後期)の夜間授業、及び4大学(茨城大学、宇都宮大学、群馬大学、埼玉大学)の連携IT大学院授業のサテライト教室として開設している」となっています。そのほか公開講座や情報ライブラリィなどとして利用されています。 参考:サピアタワー大学フロア [include file=/rssb/12594/rss.html]

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エクステンションセンター

今やエクステンションセンター設置していない大学は無いのではと思われるくらい、どの大学もエクステンションセンターに力を入れています。大学によって形は様々ですが、キャンパスで一般市民も利用できる講座を設けて、大学として広く社会に貢献するとともに生涯教育に寄与することと、卒業生などに向けに研鑽の場を設けることなどを目的としてスタートしました。広く門戸を広げることで、学生の減少を別の形で補う事ができます。少子化と無縁ではないと思います。しかしその後、社会の多様化とともに、社会人も新たな知識や技能・技術の獲得の必要性が拡大しました。エクステンションセンターが開催するオープンカレッジや公開講座等も、より実質的なスキルアップや資格取得などへと変化しつつあるように思います。 [include file=/rssb/12591/rss.html] 早稲田大学エクステンションセンターの沿革を例に、変化を探ってみましょう。どの大学も公開講座は古くから試みられていたと思いますが、早稲田大学が明確にエクステンションセンターとして発足させたのは1981年です。その後の主な流れとして、1986年にはエクステンションセンター専用棟が完成しています。1988年には公開講座の総称を「オープンカレッジ」と改め、独自の単位制を導入しています。また同年海外留学プログラムを開始しています。1997年には遠隔講義の実験が試みられています。2001年には中央区の廃校となった小学校の校舎を活用して「八丁堀校」を開設しています。より詳細に流れを追ってみると大学のエクステンションセンターが、社会のニーズに応じて様々な試みを追求しているのが分かります。 参考:早稲田大学エクステンションセンター [include file=/rssb/12592/rss.html]

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オープンキャンパス

オープンキャンパスは、高等学校に在籍する学生やその大学に入学しようと考えている人向けに、施設を案内して、より深くその学校を知ってもらおうとする取り組みです。少子化に向けて各大学の学生獲得の一環として、1900年代から、盛んに行われるようになりました。本来は知名度の薄い学校が、いろいろなイベントを企画して、自校に関心を持ってもらえるようにと、取組みしてきたものですが、最近は国立大学の難関校もイベントを開催するようになっています。主に夏休みなどに企画されるようです。 [include file=/rssb/12589/rss.html] 日本に冠たる東京大学の2010年のオープンキャンパスのイベントの内容が、ホームページに掲載されていました。専用のサイトが用意されていて、ポスターなども作られている本格的な取り組みとなっています。人気のようで定員オーバーで申込できなかった希望者への対応なども用意されていました。夏休みの期間に開催され、一日だけのオープンキャンパスですが、ほぼ一日かがりの内容の濃いもののようです。「現役学生による東大ガイダンス」、「キャンパスツアー」、「女子学生コース」、「図書館・博物館や研究所の見学」のほかに、「学部コース」として学部による独自のプログラムが組まれていました。学部によって内容は様々で、ディスカッション等を取り入れる学部もあるようです。法学部は午前・午後の2部制で行う、それぞれ400名の定員の「模擬講義」と、保有する文献等の閲覧とその解説を行う「文献・資料展示、解説」が企画されていました。 参考:東京大学「高校生のためのオープンキャンパス2010」 [include file=/rssb/12590/rss.html]

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私学の双璧、早稲田と慶應

早稲田大学と慶応義塾は、事あるごとに並び称されてきました。バンカラの早稲田にスマートな慶應ボーイというのは、私が知る限りでは、まさにその通りでしたが、最近はどうでしょうか。不景気の時には「三田会」のコネを期待して慶應の人気が高まるとはよく言われますが、どの会社も大なり小なり学閥はあるのではないでしょうか。いずれも歴史のある大学なので、人気が拮抗していますが、学科によって人気度に違いがあるようです。 [include file=/rssb/12583/rss.html] 早稲田大学は政争に敗れた大熊重信が1882年(明治15年)に創設した東京専門学校に始まります。日本の近代化を促進するためには人材育成が不可欠と考えて、そのとき設置されていたのが、政治経済学科、法律学科、理学科、英学科です。また早くから専門的実務者の育成にも尽力し、1902年には早くも大学部のほかに専門部を併設しています。また1978年には早稲田大学専門学校を開設しています。 一方慶応義塾は1858年(安政5年)に福沢諭吉が藩校として開いた蘭学塾「開塾」が始まりで、1868年(慶応4年)に「慶応義塾」と改称しています。1906年(明治6年)に早くも大学院が設置されています。また1917年(大正6年)に医学科予科が開設され、1920年(大正9年)には、医学部を含む総合大学として発足しています。1947年(昭和22年)からは通信教育部を開設しています。 両大学の年表を見ていくだけでも、その大学の方針が見えてきて、なるほどと思われます。 参考:早稲田大学HP 慶応義塾HP [include file=/rssb/12584/rss.html]

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津田梅子と津田塾大学

津田梅子のことは、誰でも歴史の授業で一度は習ったことと思います。満6歳という年齢で海を渡ったことは、今の時代でも考えられないことであり、まして明治4年ということを考えれば驚きです。最近は海外への日本人の留学生の減少が問題になっています。女子5人の留学生の中で、最後まで留学を全うしたのは年少の3人であったそうなので、出発してしまえば順応性があったのでしょうが、親の決断も相当なものだと思います。留学生を当初から「男女」とした政府も、今考えればかなり進んでいたと思います。最近の親は子供に冒険をさせないどころかモンスターペアレンツなる言葉も登場するくらいです。しかし当時、女性が置かれていた日本は留学生の親たちは別としても、まだまだ遅れていたはずです。そのギャップが女子教育に対する津田梅子の原動力となりました。 [include file=/rssb/12581/rss.html] 津田塾大学は1900年(明治33年)に「女子英学塾」として建学されています。以来、英語教育を中心として新たな学科を新設しながら今日に至っています。2000年には文部科学省の「特色ある大学教育支援プログラム」に津田塾大学の「発展し続ける英語気養育プログラム」が採択されています。国際関係などの分野の研究・教育にも力を入れて、21世紀の多様化する教育ニーズに応えるため、千駄ヶ谷に新キャンパスを新設しオープンスクールを開設、広く社会に貢献できる人材の育成を図っています。 参考:津田塾大学HP [include file=/rssb/12582/rss.html]

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東大と京大の前身は何だったのか

東大と京大は云わずと知れた、東西の双璧で、事あるごとに比較されてきました。よく言われることに、「秀才の東大と天才の京大」というのがあります。日本初のノーベル賞受賞者の湯川秀樹博士は京大の出身です。秀才と天才を生み出す違いはカリキュラムや伝統的な指導方針ばかりでなく、学生を選別する入試の問題にも現れているようです。それではそもそも東大や京大の前身は何だったのかに興味が湧きます。それぞれのHPで沿革を調べてみると、東大の前身の一つは1684年(貞享元年)の幕府の天文方のようです。その後、洋書所、開成学校と変遷し、別の流れの昌平坂学問所や種痘所(後の東京医学校)と合わさり、明治10年に東京大学として創立されています。 [include file=/rssb/12579/rss.html] 一方京大は1861年(文久元年)にオランダ海軍医官ポンペの建議により設立された長崎養生所とされています。1865年(慶応元年)に分析学理所が付設され、これが翌年江戸に移設されています。さらに1868年(慶応4年/明治元年)に舎密局として大阪府に再移転され、この舎密局が京大の前身しされています。その後、政府の学制の改変に従って、専門学校、中学校、高等中学校、高等学校と変遷し、1897年(明治30年)に、ようやく京都帝国大学として創設されました。ともに医学校的色彩の強いスタートですが、長く体勢の中の学問の中枢として歴史を刻んできた東大と、そもそも外国人による提案であったこと、時代の、政治の求めに応じて転々とした京大とでは、かなり違った背景です。 参考:東京大学HP    京都大学HP [include file=/rssb/12580/rss.html]

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東大生のノート

以前、銀行で順番待ちをしていたときに、ふと手に取った本があまりに面白く見入ってしまいました。東大生のノートをそのまま抜粋しまとめたもので、どのページも書いた学生の思考過程が歴然としていて、読んでいて飽きません。『東大合格生のノートは必ず美しい』(太田あや著/文芸春秋社)という本が出版されていますが、そのとき手にしたのは解説などの文面のない、ノートのコピーだけで綴ったようなものでした。とにかく「見やすい」!なぜ見やすいかと言えば、まず文字が見やすい、改行や段落構成がしっかりしている、余白が美しい、アンダーラインや色分けが効いている、矢印などで詳細の説明・理論的根拠・思考過程等が順を追って説明されているなど、読んでいくだけで書かれている内容が整然と頭の中で整理されながらインプットされていきます。 [include file=/rssb/12577/rss.html] 明らかに授業を聞きながら、時間内に理解を済ます努力が感じられて、しかも仕分けしながら頭に入れている様子が分かります。どのページも、書き手の個性による違いはありますが、だらだらと読まなくても、内容が一目瞭然の見やすい特徴を備えています。まさに「美しいノート」というのが手に取った実感でした。授業を聞きながら、これだけのノートを作成するには、集中力はもちろん、瞬発力も必要でしょう。美しさ、見やすさは、集中して得たその時の理解度の結果だと思います。 参考:『東大合格生のノートは必ず美しい』(太田あや著/文芸春秋社) [include file=/rssb/12578/rss.html]

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関西の女子教育の草分け、梅花学園

梅花学園は1878年(明治11年)に澤山保羅により、梅花女学校として開校しました。実に130余年の歴史を誇ります。キリスト教精神に基づく人間教育を建学の精神にしています。学校法人梅花のHPによると、「学園当時から外国人教師による斬新な英語教育を実施」とあります。明治維新からわずか10年で、女子への本格的な英語教育が関西の私立の学校で実践されていたことは驚きです。澤山と共に開校に参加した成瀬仁蔵は、その後いくつかの学校の設立に参加した後、梅花女学校の校長となり、1901年(明治34年)に日本女子大学校を創設しました。 [include file=/rssb/12575/rss.html] 梅花女学校は1913年には、政府の高等女学校令によって梅花高等女学校と梅花女子専門学校を新設しています。翌1914年には高等女学校を卒業した後の高等教育機関として梅花女学校専門部を開設しています。1922年には国の専門学校令により梅花女学校を梅花女子専門学校に昇格させています。その後も学制改革による改編と学科の増設を行い、学校法人梅花学園として現在は、梅花女子大学も大学院、短期大学、梅花高等学校、梅花中学校、梅花幼稚園を運営しています。 参考:学校法人 梅花学園 [include file=/rssb/12576/rss.html]

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子供手当てと女子大生亡国論

かって「女子大生亡国論」なるものがマスコミに取りざたされた事がありました。詳しい経緯は分かりませんが、早稲田大学の暉峻康隆教授が『婦人公論』にて唱えたものです。戦後の高度成長期に、多くの女性が大学に進学するようになり、特に文学部系は女子学生が男子学生の数を上回るようになっていました。しかし、当時はまだ女性の社会進出が進んでいず、大学が、やがて家庭に埋没する人間に占領される現実を問題視したもののようです。いずれ社会の中で競争に打ち勝っていかなくてはならない男子学生と比べて、女子学生はまじめに勉強はすれけれど、どこか真剣味に欠けていたこともあったのでしょう。日々うんざりしたであろう教授の気持ちも分からないではありません。 [include file=/rssb/12549/rss.html] しかし当時は女性の働く場も限られていて、女性の25歳、35歳定年制度が平然と企業でまかり通っていました。地位も低く雑用的な仕事を割り振られ、長く働いても昇進も望めず、給与も男性の半分くらいでは、働けという方がおかしなものです。一方専業主婦は税制面でも社会保障面でも優遇され、この優遇は現在に至るまで続いています。今も「子供手当て」に対していろいろな意見が交わされていますが、働く女性達の「子供手当てよりは保育園を」という意見は、極めてまっとうな気がします。働きながらも安心して子供を育てられれば、女性は子供を生むはずです。女子大生が増加するに伴って、平等な社会への法的整備や保育園の充実がはかられていたなら、「女子大生亡国論」も違っていたかもしれません。「子供手当て」に、いまだ男性が考える「専業主婦」前提の施策のちぐはぐさを感じます。 [include file=/rssb/12550/rss.html]

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